京都農園『種苗目録』大正2年度


 京都府葛野郡太秦村(現・京都府京都市右京区)の京都農園が大正2年(1913年)2月に発行したカタログです。『京都府農會報』によれば、京都農園のはじまりは、京都市内で種苗販売をしていた杉本保彦氏が、明治40年に太秦村へ移転したところにあるそうです。本資料の2ページ目から、大正2年当時には、太秦村の本店以外にも、京都市四条通縄手東にも支店があったことがわかります。杉本氏は太秦に移転し京都農園へ改称する以前から輸入種子を多く取り扱っていたようで、本資料でも掲載品の多くを海外品種が占めています。

 杉本氏は『園藝新誌』という雑誌を発行しており、本資料も、『園藝新誌』の第83号という位置づけです。『園藝新誌』については、明治35年発行の第2号が 京都府立総合資料館に保管されています。京都府立総合資料館には、明治末期から大正初期の京都農園を写した写真資料をはじめ、いくつかの京都農園関連資料が保管されています。

 本資料の特筆すべき一つ目の点は、明治43年10月5日、東宮殿下(のちの大正天皇)の侍従が差遣されてきたことを記念してセールをおこなっていることです。差遣された有馬純文侍従は農科大学(現・東京大学農学部)を明治30年に卒業しており、卒業論文のタイトルは「米粒ノ腹白ニ就テ 就中腹白ノ比重重量並ニ硬度」というバリバリの有識者です。

 二つ目の特筆すべき点は、裏表紙が完全に英文であることです。『園藝新誌』が国内外を問わずどこまで普及していたのかは不明ですが、中央の枠内には、"Visitors are cordially invited to my main nurseries quite close to the Hanazono Station on the way to Hodzu rapids."「保津峡にお越しの際にはぜひお寄りください」(意訳)と書かれています。海外からの見学もあったのでしょうか。実際に見学があったのかどうかは不明ですが、保津川遊船企業組合のホームページによれば、大正9年にルーマニア皇太子、大正11年年に英国皇太子が保津川下りをしているそうで、当時の保津峡が海外賓客のおもてなしの場となっていたことは間違いないようです。

 以下、画像データです。ページの関係上、花種子や農具等を紹介している部分を省略しています。

 本稿に関するお問い合わせはsec@kakukei-oiseed.comへお願いいたします。お返事までしばらくお時間をいただく場合がございますが、ご了承ください。   (鶴頸種苗流通プロモーション 代表 小林宙)


主な参考文献

1. 京都府立総合資料館(1970), 『京都府百年の年表 3 (農林水産編) 』, 京都府.

2. 市川大祐(2002), 「農学部図書館所蔵卒業論文所在状況について」『東京大学日本史学研究室紀要』第6号.

3. 保津川遊船企業組合ホームページ https://www.hozugawakudari.jp/

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